今回は、産休中の歯科衛生士Xに不快感を抱いた歯科クリニック代表者理事長が、強引に退職手続きをすすめてしまった事例をみていきます。
概要
Xは、産休開始後に、クリニックが労務管理事務を委託している社労士事務所に対して、出産や育児休業の手続きに必要な書類の送付を求めましたが、一向に届きません。
他方、理事長はXとXの同僚らの「Xは育児休業取得後、職場復帰予定」という共通認識に反して、退職手続きを進めようとし、その委託を受けている社労士事務所もXから求められた必要書類送付に応じませんでした。
Xは休業中にも同僚と連絡を取り合って、理事長が自分(X)を辞めさせようとしているのではないかと考え、改めて理事長に“ライン”で復帰の意思表示をしました。
しかし、Xのもとには出産手当金関係の書類と一緒に退職願用紙が届きます。Xは、出産手当金関係書類のみ返送したところ、書類不足の連絡を受けたため、再度理事長に対し“ライン”で「1年後復帰予定、退職の意思はない」ことを明示しました。
理事長は、「社労士事務所長の確認がとれた、退職届がなくても退職とみなし、育児休業の申請は認められない」などと主張して、退職扱いとしました。
Xは、自己都合退職の事実がないのに退職したものと扱われた上、育児休業給付金の受給も妨げられたとして労働契約上の権利を有する地位の確認と損害賠償金他の支払いを求めました。
この事例は、医療法人社団充友会事件(東京地裁 平29.12.22判決)です。
背景
産休に入る前に、Xは、社労士事務所職員と雑談で、職場復帰した後の状況によっては退職する可能性や、仮に退職した場合は、居住地近くでの就労を考えていることなどを話していました。
また、理事長側の主張によれば、Xが産休に入る前に理事長からXへ職場復帰を要請したとき、Xは「無理!無理っすよ」などと言って職場復帰を拒否した、とあります(裁判所の認定事実ではありません)。
そのような事情があって、理事長は、復帰の意思がないのに育児休業手続きを希望するXに困惑し、社労士に相談したところ、概略次のような説明を受け、弁護士からも同様の意見を受けたということです。
「育児休業給付金をもらっただけで、職場復帰することなく退職するつもりなのでは。そのような真意を知りながら給付金受領に加担することは制度趣旨に反する。」
理事長は「不快感」を抱いて、Xから退職の意思表示があったと決めつけた対応を取るようになった、と裁判所は判断しています。
結果
Xからの必要書類送付の依頼を無視して、Xに育児休業を書面で正式に申し出ることを妨げて、育児休業取得を拒否したとされ、Xが受給できたであろう育児休業給付金相当額の損害賠償義務およびマタニティ・ハラスメントを根絶する社会的要請等から慰謝料200万円の負担が理事長側に課されました。
従業員側コメント
上記事例のXは、産休開始前に年次有給休暇をまとめて取得しています。
このようなことも退職の意思を表す行動にあたるのか、裁判所の判断は概略次のとおりです。
- 産休前に年休をまとめて取るのは、出産準備等のため必要性が高い。
- 年休の権利は2年の時効で消滅しそれ以上繰り越せない。
- 産休、育休期間中は年休を利用する余地はないから、職場復帰までの間に大半の年休が時効消滅する。
- 職場復帰後には新たな年休が付与される※1から産前休業前に年休残日数全て消化しても、復帰後の年休取得には支障がない。
- 復帰後に子の看護で休みたい場合は、年5日の看護休暇を利用できるから、育児に支障はないだろう。
これらの理由から、産休開始前に年休をまとめて取得しても、それが退職の意思ありとは推測できない。
使用者側コメント
上記背景に記述の産休前に交わされたような会話は、「確定的な退職の意思を示す言動ではなく、将来の職業生活の在り方に、いろいろな事態を想定し様々に考えを巡らせていただけに過ぎない」と裁判所から指摘された通り、やはり退職の意思確認はしっかり書面で取る必要があることが分かります。
条件を満たす従業員から育休制度利用の申出を受けたとき、事業所は拒否することはできません※2。
事例は、事実上の育児休業取得拒否にあたり、「故意に、少なくとも通常の注意力・理解力を発揮すれば、たやすく違法な結果を回避できるのに、自己の根拠のない思い込みに執着するという故意に準ずる著しい重大な過失によってXの労働契約上の権利を有する地位及び賃金、育児休業取得その他の権利を違法に侵害している」と判旨されました。
理事長から相談を受けて助言した専門家にも責任が問われます。しかし、同時に給付金の不正受給に加担するなどあってはならないことです。
事業所にできることは、育休制度説明※3の中で従業員に対し、不正受給は許されないことを合わせて伝えることではないでしょうか。
余談ですが、上記医療法人は、係争中に法人格を解散しています。
早い段階で敗訴を予想し、法人事業を理事長の個人経営に承継させることで、法人の財産が差し押さえられることを回避する裁判手続きのテクニックが駆使されたようです。
しかし、これは裏目に出たと言ってよいと思います。医療法人は解散しても、清算決了するまでは労働契約関係は存在します。
むしろ従業員側がさらに事業譲渡等による労働契約関係の承継などを主張する別の手続きを強いられることになり紛争は長期化、従業員側の精神的損害が拡大するとして、その分が慰謝料に転嫁されています。
※1 産前・産後休業および育児休業期間は、年休取得要件の出勤率算定上は出勤とみなされます。
※2 育児介護休業法第6条(育児休業申出があった場合における事業主の義務等)
※3 育児介護休業法第21条(育児休業等に関する定めの周知等の措置)および同法第22条(雇用管理等に関する措置)